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Number 66
Usaatoにかかわる、ひと・もの・こと vol.10 西村吉右衛門(きちえもん)さん
Usaatoの有限会社として、うさとジャパンが創業して今年で20年。
その立ち上げから支えてきてくださっているのが西村吉右衛門(きちえもん)さんだ。
京都における最古の商家の家柄として世に知られる、「千切屋」という屋号で法衣商(お寺や神社に法衣をご用立てする商い)を営まれてきた吉右衛門さん。
代々そうしてきたように吉右衛門さんも名前とともに家業を継いできたが、代継ぎしてから着物産業は下り坂を辿る一方だった。
「2003年に11月に会社を畳んだんよ。
まあ、破綻したわけやね。資産はすっからかんになったんや。
当時僕は54歳。
まだひと働きしなければならないところで、
会社の整理をしながらもこれからどうしようと思っていた。
そんな時に夢を見たわけ。
「天然素材の服をやれ」と。
お告げみたいなん来て。」
ー具体的!笑
「そう。笑
ひととの出会いは面白いもんで。
その日にUsaatoの仕事を請け負ったばかりの元部下が、成り行きで会いに来たんです。
彼も1月から、Usaatoの仕事を請け負ったばかり。
まだ日本での拠点も無い頃です。
それで、色々とあって、その時に居たUsaatoのスタッフから「京都にUsaatoの基地を作りたいんです」と話があった。
会社が潰れた時に、一文無しになったんだけど、ここ(ちおん舎)だけは家内のお父さんのおかげで残っていた。
そういう意味では良かった。
それで、ちおん舎の場所どうですか、と。
僕は経理をやったことがなかったんだけど、会社の整理の時に、もう自分がやるしかなくて、経理をやってた。
それで、経理を手伝ってあげるよ、と。
そうしてUsaatoに関わり始めたわけ。」
【Usaatoの初期の展示会が行われていたスペース】
「会社が破綻したときに他は何もなくなってしまったわけなんだけど、ある人から般若心経を読んでいたらどないかなるでしょと言われて、仏壇で毎朝6時くらいから読んで。
そこから人生が変わっていって。
”この世にはものがあるようで、実は空(くう)なんだ”
”ある意味では自分が作り出した虚(きょ)の世界なんだ”
というように受け取った。
ということは、自分が変われば、世界が変わる、ということにふと気付いてね。
暗く落ち込んでいる時に。笑
そこから2ヶ月くらいでUsaatoと出会っているわけ。
面白いよね。
そのままいっていたら鬱になっていたと思う。
そんなどん底を味わったことがそれまでの人生でなかったから、ある意味この苦境は教えになったよね。
持っているものを全部無くしたというのは、悲しいことではあるんだけど、全部手放したら別のものが入ってくるということも、すごく感じた。
だから、Usaatoを会社として創業するまでの一年間はものすごく面白かった。
僕自身は守るものがないから。ある意味で。
そういう時って心配しないしね。
音楽のイベントやファッションショーとか、色んなイベントをやったよね。
創業メンバーは給料体系もなくて毎月儲けがあれば分配する、という。
みんなが業務委託、という形にして。
それで、一年間したら資本金ができたので、Usaatoを有限会社にした。
まあそれで、4、5年うちにいて、狭くなってきたので別の場所に移る、そのあたりまでが面白かった。
やっぱり、これから色んなことが生まれていくという感じの時期で。
そこで出来た多くのご縁が、代理販売のシステムにつながっていったしね。」
ー代々続いてきた”屋号を守る”という仕事から見ると、180度違う仕事に感じます。
「それまでは社長だったから、実務的なことはほとんどやらず。
部下に命じてやらせるという、舵取りみたいな仕事しかしてきてなかったから、新鮮やったよ。
良かったのは、そこで全然違う世界を経験したことで、面白い人生になったなと思う。
Usaatoが、”みんながやりたいことをやりながら、一つの組織としてある”みたいなことの、新しい形のモデルになるといいなと思っていたし、そういう興味があったよね。」
【ちおん舎では和洋折衷の調度品が見られる】
ー今のUsaatoをどう思いますか?
「今はちょっと距離があるからなんとも言えないけど、形としてまとまった感じがする分、そういう面白さは薄れたなと思うね。
なかなかでもむずかしいことやな。
これまでのことを思い返しても。
既存の組織体ではダメだし、新しいことをするにしても、何を礎(いしずえ)にまとまるかっていうのはすごくむずしいことやね。
でも、今でも、そこにチャレンジして欲しいなとは思っています。
志を持っている人が3人いると形になっていくんですよ、組織っていうのは。
それで、形になって、腐っていくっていう。笑」
ー笑 なんでだと思いますか?
「なんでやろね。
そういう宿命なんやろね!
だからやっぱり組織も、生き物なんや。
生まれて死んでいくっていう。
生き物やと思うたら自然なことやもんね。
それを、確固としてあるもんやと思う方がおかしいんかもね。」
ーこれからのUsaatoに望むことってありますか?
「まあだから、生き物としてどんどん新陳代謝して。
いつかうーさんもいなくなるやろし、していることを継いでクリエイティブにやる人が生まれる素地も作らないかんのちゃうかとも思うけど。
まあ、無くなるにしても全部自然の法則やから、今の仕事を心から楽しくやってもらう組織であれば良いんちゃう?と思います。
最近思うのは、我とか私欲じゃないところで公益のために尽くしていれば、生かされるのかな、ということですね。
それこそ法衣商をやっていたから、神仏と接してきたわけじゃないですか。
慎んで質素に生活していたわけ。
”三条室町 聞いて極楽 居て地獄 お粥かくしの長暖簾”っていう、うちのことを歌った童歌があったくらい。笑
けちじゃないんだけど、質素倹約で生活して、飢饉の時なんか、困っているところがあったらそこにお金を出すっていうね。
公益のためにね。
日本人の良さでつながっていくところもあるというか。」
ー大きく見守るというか、Usaatoの父的な視点ですね!
現実面のフォローをし続けてきてくれたという面も含めて。
「俺はズボッと入り切らない、ちょっと距離のある、第三者的なところで見ているのが好きなんやろうね。
今があるのはUsaatoのおかげだと思うし、うーさんには本当に感謝しています。
この出会いがなければ今の仕事もなかったと思うしね。」
【蔵を見せていただいた。「千切屋」が世界進出を計画していた頃(約100年前)のポスター】
ー今はどんなお仕事をされているんですか?
「ちおん舎の運営と、”鷹山”という200年前に無くなった、祇園祭りの山を復活させた、その事業を10年前からやってますね。」
ーへえ!きっかけは?
「もともと会社が三条通にあって、その前にあった山で。
うちが江戸時代代々面倒見てきた山やっていうことは知ってたんやけど、うちの町内でもないしなと思って。
そこへ、さっき話したようにたまたま志ある3人が集まったわけですよ。笑
その中の一人が「定年になったら、鷹山の復興をやりたいんです」って言ったわけ。
「ほなすぐやろか!!」って。
3人でわあっとなって。
ものが生まれて、成長していくところを見るのが好きなんやね。
なんか、面白いよね。生成していく時って。
わくわくするよね。
あ、子供の時ってことか。」
ーお父さん。笑
「ほんまや。笑
Usaatoは成人になってしまった感じやけどね。笑」
ー中身も大人になれるようにがんばります!
今年は絶対、今年はいよいよ祇園祭の巡行が復活しますね。
鷹山見に行きます!
「ぜひ!」
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